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かつて風俗島(売春島)と呼ばれた島の現在とは? 三重県・渡鹿野島

 かつて風俗島(売春島)と呼ばれた島の現在とは? 三重県・渡鹿野島

あなたは「渡鹿野島」を知っていますか?

渡鹿野島(わたかのじま)は、三重県志摩市にあります。

ハート型をした、知る人ぞ知る島。
伊勢志摩国立公園内の的矢湾にある離島で、本土からは船にて約5分程度。

昔は「風俗島」「売春島」と呼ばれていたことは、ネットの一部では有名な話です。

「渡鹿野島、現在はどうなっているのか?」
「渡鹿野島では、今も売春は行われているのか?」

今回は、渡鹿野島の実態と現在に迫ります!

「風俗島」とも呼ばれる禁断の島、三重県渡鹿野島の歴史

渡鹿野島は江戸時代より、江戸と大阪を行き来する船が停泊する島。

古くより漁師の間では、荒天時の避難場所とされていました。
船が帆船だった時代に、良い風を待った港だったことから「風待ち港」と呼ばれていたことも。

このため、船乗りのための宿が立ち並ぶように。
そして、宿泊客を相手とした「把針兼(はしりがね)」と呼ばれる水上遊女も集まりました。

渡鹿野島は、遊郭街として大いに栄えた島だったのです。

渡鹿野島は江戸時代に船が立ち寄る「風待ちの島」として船乗り相手の遊郭が栄えた。昭和の終わりから平成の初めにかけては週刊誌などで「売春島」として取り上げられ、今もSNS(会員制交流サイト)での書き込みが目につく。

実際、女性を紹介したとされる飲食店宿泊施設、女性たちが暮らしていたマンションやアパートなどの建物が廃虚のように島内に残っている。

島で暮らし続けているという男性(72)は「数十年前は桟橋裏側の通りが夜になると男性であふれていた」と振り返る。

引用:産経ニュース

島に住む女性も、船乗り相手に夜伽をして小遣いを稼ぎました。
売春させるため、島の住人が島外から養女を迎える事もあったようです。

これが、娼婦を斡旋する置屋文化のはしりになったとも言われています。
 

徐々に風俗島としての面影をなくしていった

明治時代に入ると、娼婦が島から出る事は禁止され水上遊女は廃絶。

しかしながら、渡鹿野島での売春行為は廃ることなく続きました。

昭和に入り第二次世界大戦中には、激しい空爆に襲われますが復興します。

80年代のバブル絶頂期にはパチンコ屋やストリップ劇場、ホテル、スナック、居酒屋等がひしめくことに。
性風俗産業が盛んな「夢の島」として、名を馳せました。

その頃になると、売春産業に従事するのは身売り同然の扱いとなっていた家出少女が大半に。

しかし1958年、売春防止法の完全施行後、島の売春産業は徐々に衰退。
それでも2000年代までは、性風俗産業が続きます。

ですが2008年にリーマンショックの煽りを受け、歓楽街は廃れていきました。

渡鹿野島は、現在では観光地化に力を入れている

2016年に伊勢志摩サミットが行われました。
開催地に近かった渡鹿野島は、再び注目を集めるように。

2020年末のデータによると、渡鹿野島の人口は約169人。

現在は観光地として、温泉や宿泊、マリンレジャーの整備に力をいれています。

家族で楽しめる温泉やビーチがあり、伊勢海老や、安乗ふぐ、的矢カキ等の海の幸も満喫できる渡鹿野島。

本土からは渡船で約3分とアクセスは良好。
気楽に離島の大自然を満喫できるため、夏には大勢の家族連れの観光客で賑わいます。

しかしながら、島には昔は売春や斡旋の場だった廃墟がいまだ健在。
廃墟好きな旅行者にも人気の島です。

まとめ

現在は観光地化を促進しているものの、廃虚となった建物の撤去問題も抱える渡鹿野島。
未だに以前の遊郭「売春島」として、治外法権的な遊びができるマイナスイメージもあります。

「最後の桃源郷」と呼ばれ、事実上の無法地帯だった閉鎖空間が、男心をくすぐるのかもしれません。

今も一応夜遊びはできるようですが、旅館でのコンパニオン宴会が中心のようです。

夏場に観光で行ってみるのもいいですね!

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